COLUMN

新・デザイン@ランダム

第16回 人類とデザイン – その11

日本に於ける近代デザインは1945年の第2次世界大戦終了後、進駐軍の家族のための住宅、家具、什器の生産がきっかけとなった。

無謀な開戦により文字通り「国破れて山河在り」という状態で終戦を迎えたが
産業復活のきっかけとなったのが、皮肉に約2万を超える進駐軍家族の需要に応えるための住宅、家具、什器の生産であった。
連合軍総司令部(GHQ)のチーフデザイナーであった
クルーゼ少佐(米国最大のカタログハウス、シアーズローバックの家具担当部長)の指導の下、
工芸試験所職員及び民間の家具設計者(秋岡芳夫、野口寿郎ら)が担当した。
家具のみならず、電気洗濯機、冷蔵庫、電気レンジ、コーヒーパーコレーター、食器等々多岐にわたった。
大都市の空襲により生産設備は壊滅状態であったが、天童木工、秋田木材等の地方工場の協力により対応することが出来た。
しかし、当時の米国の生活に基づく要求レベルは非常に高く対応に苦慮したと聞いている。
もちろん、日本には日本独自の文化、伝統に基づく漆器、鋳物、木工、陶磁器、等々優れた美意識に支えられた生産技術が存在するが、
西欧の産業革命の近代生産技術に支えられたデザインワークについては残念ながら接点は殆ど無かったものと考えられる。
しかし、1次、2次と続いた世界規模の戦争状態は経済活動の停滞をもたらし、
戦勝国であった国々においても人々の日常生活に関わるデザイン活動は、
1944年に英国のデザイン振興機関「COiD」、米国に於けるデザイナー団体「IDSA」の設立に見られる通り
戦後を待たざるを得なかったのが実態であった。

1947年、日本の産業工芸の振興の中心機関であった商工省工芸指導所は多摩川河畔の下丸子に移転、
通商産業省産業工芸試験所として日本に於けるデザイン振興のための中心機関としての活動を行った。
1950年には同所の出版による「工芸ニュース」が復刊され、当時の唯一のデザイン関連誌として大きな役割を果たしたが、
残念ながら1974年に廃刊された。

工芸ニュース

当時の大きなトピックスとしては、1950年にデザイン先進国であった米国から「イサム・ノグチ」が来日、
翌年には当時の専売局からの依頼を受けて煙草の「ピース」のデザイナーとして著名になった「レイモンド・ローウィ」が来日し、
近代デザインへの認識が徐々に高まることとなった。

イサム・ノグチ テーブル、竹を使ったランプ

レイモンド・ローウィ 煙草「ピース」、クラッカー「RITZ」

デザイナー団体の設立が始まる

この様な時代の要請を受けて日本においても専門分野ごとのデザイナー団体を設立する機運が醸成されてきた。
先鞭を切ったのがインダストリアルデザイン(当時の日本語表現では工業デザイン)分野であった。
前述の産業工芸試験所の主要なメンバーは下丸子に移転する前の川崎市津田山時代から、
当時の意匠部長であった剣持 勇(数多くの椅子の名作のデザイナー)が中心となって会合を持ち、
米国のIDSAに倣って日本でもインダストリアルデザイナー団体を設立するための前段階として
「工業デザイン研究会」が発足することになった。
その後、まだ少数ではあったがフリーランスデザイナー、東芝、三菱電機、日本コロンビア等の企業デザイナーも加え、
すでに組織化が進んでいた英国のCOiD、米国のIDSAの規約等も研究、
1952年7月下旬に「工業デザイナー団体設立準備委員会」を発足させた。
そして、同年10月20日、当時の日本商工会議所を会場として、創立総会、発会式が行なわれ、
創立会員25名による日本インダストリアルデザイナー協会「Japan Industrial Designers’Association」(JIDA)が発足、
1969年には社団法人として公的な資格を得ることにった。
次号で、その他団体の発足状況についてお伝えしたい。
本稿は財団法人工芸財団編、「日本の近代デザイン運動史」を参考にさせていただきました。

坂下 清 
(一財)大阪デザインセンター アドバイザー

大阪生まれ。1957年東京芸術大学美術学部図案科卒業。同年早川電気工業(現シャープ(株))入社。さまざまな家電製品のデザインを行う一方、全社CI計画を手がける。
取締役、常務取締役、顧問を経て1997年退任。

Corporate Design Management研究をライフワークとし、大学、関係団体、デザイン研究機関にて活動を継続。

2000年~2012年(一財)大阪デザインセンター理事長。

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