COLUMN

新・デザイン@ランダム

第12回 人類とデザイン – その7

1929年、アメリカ大不況、新たな職能「インダストリアルデザイナー」が世界を変えた。

1914年6月、中央ヨーロッパ、バルカン半島の都市サラエボで
オーストリアの王位継承者フェルディナンド大公が暗殺されたことを契機として、
主要なヨーロッパ諸国が当時の同盟関係による対立が深まり、最終的にはアメリカ、日本まで巻き込んだ第1次世界大戦が勃発し、
1918年11月に終戦を迎えるまで4年余り続けられたことにより、ヨーロッパ各国の経済に大きな打撃を与えることとなりました。
その反面、直接的には戦線に参加しなかったアメリカの経済は、
ヨーロッパ諸国への輸出が増加することによって重工業を始めとする設備投資が増加し、
また諸国に先駆けて広大な国土を背景にモータリゼーションも急速に拡大する等の要因が重なることにより経済成長を遂げることになりました。
しかし、世界経済の成長不安から公定歩合の引き上げ、銀行金利の上昇が始まり、株式市場へ波及することとなり、
1929年10月24日(木曜日)10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落したことをきっかけとして午前中に売り一色となり、
この日だけで1,300万株近くが売られることになり、その後「ブラックサーズデイ・暗黒の木曜日」と呼ばれました。
ヨーロッパ諸国と違って好況が続いたアメリカ経済も、株価の低迷、輸出の低迷等の要因が重なり
1930年代の半ばに至るまで低迷を続けることになりました。

*コダックのカメラ(ティーグ)、ベル卓上電話機(ドレィファス)、ゲシュテットナーの印刷機(ローウイ)

20世紀の新たな職能 “Industrial Designer・インダストリアルデザイナー”が開く新しい世界

長く続いた大恐慌も1920年代の後半から緩やかな回復基調に入り
広大な国土に広がった鉄道(西部劇でお馴染みの木材を燃料とする低速の機関車)から
石炭を燃料とする高速大型機関車の導入により輸送量が大幅に増大したこと。
また、流れ作業による大量生産の口火を切った「T型フォード」に象徴されるモータリゼーションの拡大により
経済活動の回復基調が顕著となりました。
加えて、戦後の復興に向けてのヨーロッパ諸国への輸出も増大の方向に向かいました。
産業界も需要回復に向けて積極的に新規商品の開発に向けての動きが高まりました。
一般大衆の消費も緩やかながら回復傾向となり、中でも家庭生活の利便性向上に直結する
電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機等のいわゆるHome Applianceや、
家具類の総称であるHome Furnishingに関わる需要が拡大しました。
そのような消費動向の中でデザイナーたちの最初の活動機会は、ポスター、新聞広告、パンフレット等のグラフィックデザイン、
百貨店のウインドウディスプレイ、等々消費者の需要喚起から始まりましたが、
その才能が工業製品にも発揮されることになり、新たな職能の誕生に結び付くことになりました。
その名称がインダストリアルデザイナーでした。
幅広い分野に亘る産業によって生産され、消費者のより豊かで、利便性の高い生活に貢献する創造能力を持った
新たな職能が誕生することになりました。
“Industrial Designer”。直訳すれば産業全般に関わり、企業とユーザーにとって最適な状況
(製品の機能、性能のみではなく使用性、そして、美的価値まで含めた)を創造する業務だと考えられ、
その後は世界的な産業の発展、消費者社会の拡大、加速度的な発展を遂げる技術革新等々の要素に支えられ
現在ではユーザーと生産者のより良い関係を構築する職能として認識されることとなり、
そして現在では家電機器や自動車等の工業生産品に関わるのみならず、
住宅、商業環境、交通システム等々、急速に進化を遂げる産業化社会において、
人類のより豊かな生活を支える重要な職能の一つとなっています。
先ず、その新たな職能を実現した3人のパイオニア達の紹介から始めることとします。

*ウォルター・ドーウィン・ティーグ(Walter Dorwin Teague)
1920年代初期からグラフィックデザイナーとして活躍していたが、
1927年カメラとフィルムのトップメーカーであった「イーストマン・コダック社」から、カメラとそのパッケージのデザインの依頼を受け、
1928年に大衆ユーザーの嗜好も意識した「ヴァニティ・コダック」を発表している。
ボディと蛇腹部分にはクロムメッキによる装飾要素を採り入れ、多様なボディカラーも用意されていた。
その後コダック社の数多くのカメラのデザインを手がけたが、1936年に発売された「バンタム・スペシャル」は機能性を重視し、
基本的要素を重視したコンパクトな手軽に携行出来る携行用小型カメラとして大衆の需要に応えるものでした。
彼のデザインは表面のスタイリングのみではなく、使用性、機能性、生産性も含め総合的な解を目指したものであり
インダストリアルデザインの基本を実現したものと言えます。
コダック社とは生涯を通じてよい関係を築き、コダック社が自社内にデザイン部門を設立した後も
デザインコンサルタントとしての活動を続けました。

*ヘンリー・ドレイファス(Henry Dreyfuss)
ドレイファスはニューヨークのブロードウェーを中心にステージデザイナーとして活動していましたが、
社会の変化を予測し、1929年にインダストリアルデザインのオフィスを開設しました。
翌1930年にベルテレフォン会社がドレイファスも含めて10人の芸術家、デザイナーを選び、
1,000ドルの賞金を懸けて未来の電話機の形のアイデアを募りました。
彼は表面だけのアイデアでは意味がないという理由から応募を辞退しました。
彼は、デザインは技術者と協同して「内側から外側に向かって行う必要がある」主張しました。
ベルテレフォン会社は、応募作には優れたものが無かったことから改めてドレイファスに新しいデザインを依頼することになりました。
電話事業は独占事業であったため、技術的な改良以外の理由でいわゆる競争のためのモデルチェンジの必要が無かったが、
1937年にドレイファスのデザインによるハンドセット一体型の電話機を発売した。
この電話機は最初は金属製でしたが、40年代初期にはプラスティック製に代わりました。
この形は現在の携帯型電話機に代わるまで世界中の家庭用電話機の原型ともいえるデザインとなりました。
この成功により、ドレイファスはベルテレフォン会社のコンサルタントデザイナーに就任し、
その後長年にわたり電話機のデザインの向上に寄与しました。
彼は、「人間に合う機械こそが最も効率の良い機械である」という信念に基づき、
いわゆる外観のスタイリングデザインのみならず人体のサイズや動作についてデータを集め
1961年に「人間の測定・The Measure of Man」として著作にまとめられました。
この考え方は「人間工学・エルゴノミクス」として多くのデザイナーによって活用され
インダストリアルデザインが単なる外観のスタイリングだけではなく
使用者である人間のためのデザインという基本的な考え方につながったと言えます。

*レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)
ローウィはもともとはフランス人であり、第1次大戦後、26歳ですでに渡米していた長兄を頼って米国に渡りました。
すでにフランスでエンジニアリングの基本を学び、後のインダストリアルデザイナーとして必要な能力は既に習得していたと伝えられています。
ニューヨーク時代はイラストレーター、広告デザイナーとして活躍し、
メーシー、サックス・フィフス・アヴェニュー等の百貨店の広告やウィンドウディスプレイ等においても顕著な業績を上げていました。
1929年ローウィにとって大きな転機となったのが「ゲシュテットナー社」の依頼によりデザインした印刷機でした。
彼はオフィスで働く女性たちが印刷機の機構部分の油で汚れないことを基本に考え、
機械の露出部を意図的にカバーすることを意図したデザインを完成し、大きな評価を得ることとなりました。
以降、ローウィのさらなる活動も含め、本格的なインダストリアルデザインの発展について次稿で展開することとします。

坂下 清 
(一財)大阪デザインセンター アドバイザー

大阪生まれ。1957年東京芸術大学美術学部図案科卒業。同年早川電気工業(現シャープ(株))入社。さまざまな家電製品のデザインを行う一方、全社CI計画を手がける。
取締役、常務取締役、顧問を経て1997年退任。

Corporate Design Management研究をライフワークとし、大学、関係団体、デザイン研究機関にて活動を継続。

2000年~2012年(一財)大阪デザインセンター理事長。

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